村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝 栗原康

岩波書店 2017年

初めて読んだのは出版された2016年。朝井リョウが何かで勧めていて興味を持った。
今から5年前、ちょうど新卒として働き始めたときだった。
今も知らんけど社会のことも会社のことも何も知らなかった。ここ数年で社会のことを前より考えるようになったのと、今の情勢のこともあって、読み返すと前より面白いかなと思って、読んでみた。

会社やめてニートになったり、食品工場のバイトでプロレタリアート体験したり、大企業で小売りのバイトもして、そのあと大学院に入って、そしたら急にエリートとして扱われたりした。この5年、いろいろあった。最近まで右翼とか左翼とかもよく分かってなかった。

5年前は今より何も知らなかったわけだが、会社は嫌だったので、たぶん労働者の権利とかそのくだりは理解していたと思う。社会のことはよく分からなかったけど、野枝の生き方をかっこいいと思った。

今回読んでみて、やっぱりあらためて野枝のハングリー精神はすごいと思った。
大正時代のアナ―キストで、とにかく人生がすごい。
どうしても学校にいきたくて親戚の叔父さんに毎日手紙をだして、援助の約束を取り付ける。実家に決められた結婚が嫌で逃亡。学校の先生に猛アタックして、周囲の反対を押し切って一緒になった。青鞜で書いて社会道徳を批判する。その後大杉栄とデキて、家を飛び出して、大杉は元恋人に刺される。世間からの大バッシングを受ける。
無政府主義者として大杉が勾留されたときは内務大臣に手紙を出す。
「でもあなたよりは私のほうがずっと強みをもっています。そうして少くともその強みはある場合にはあなたの体中の血を逆行さすくらいのことはできますよ、もっと手強いことだって―あなたは一国の為政者でも私よりは弱い。」

実家ともめても世間に叩かれても自分のしたいことをする。助けてくれる人には誰にでも頼る。
どれだけ問題があっても子供を産むときには実家に帰省して世話してもらうし、マツタケが食べたいと言って要求もする。お金がなくなったら、もらう。
そのかわりに困っている仲間がいたら、自分も貧乏なのに有り金全部あげたり、居候させてあげたりする。
労働者の権利、女性の権利のために文章でたたかう。好きな人と寝るし、子供もめっちゃ産む。


今回印象に残ったのは、結婚制度、恋愛について。
結婚制度は不平等なもので、女性を奴隷化するものだということは今も続いていると思う。女性は生きるために、進んで不利な役割を果たすようになる。現代では少しづつ改善していっている部分もあるのかもしれないが。
また、愛し合うと、最初はお互いの越権をできるだけ許し、同化しようとする。しかし完全にはできないため、どちらかが我慢を強いられることになる。それは女性である場合が多い。そこで野枝は役割にとらわれない「フレンドシップ」の重要性を言う。

私はさきに、両性問題に対して考えることに興味を失ってきたといいましたが、事実、私は、親密な男女間をつなぐ第一のものが、決して、『性の差別』でなくて、人と人との間に生ずる最も深い感激をもった『フレンドシップ』だということを固く信ずるようになりました。『性の差別』はただ、同性間の『フレンドシップ』以外に、それを助ける力となるだけだと考えるようになりました。
p.127

 

ただ私がこの年月の間に学んだことは『恋は、走る火花、とはいえないが、持続性をもっていないことはたしかだ。』ということです。が、その恋に友情の実がむすべば、恋は常に生き返ります。実を結ばない空花の恋は別です。実が結ばれれば恋は不朽です。不断の生命をもっております。その不朽の恋を得ることならば、私は一生の大事業の一つに数えてもいいと思います。
p.163

「ひとつにはなれない」ということを頭に入れたうえで、それでも分かり合おうとお互いに歩み寄る姿勢が大切なのだと。自分に欠けているものはこれなんだなと思った。


アナーキズムについて。
野枝は各人が周囲と助け合い生活し、それを拡大していけば政府は要らないという考え方を基本としている。もし本当にそうなれば素晴らしいと思う。
もし現代でお金がなくて助けてほしい、食べ物がほしい、となったら、お金とは別の資本である「人とのつながり」が必要になってしまうよな。現代は何でも「資本」として捉えるようになっていて私がそれに染まっているんだと思う。

最後は憲兵隊に連行されて殺されてしまう。
殺される前にも、仲間の無政府主義者や大杉の恋人に殴られたり蹴られたりしていて、今より全然人権がなかったんだなと思う。

野枝はいっぱいひどいこともしているけどすごく魅力的。
カバーにもある、「その思想を生きることは、私たちにもできるはず」の言葉が力強い。
我慢して生きていると、こんなふうにわがままな生き方に反感を持つかもしれないけれども、人は本来は生きたいように生きていい。
私も好きなように生きている派閥だからこの本は元気が出る。


 

 

 

Opinión: Los japoneses privilegiados

Artículo: 2021: Que la indiferencia no se precipite como la lluvia

por Olga Rodríguez

https://www.eldiario.es/opinion/zona-critica/2021-indiferencia-no-precipite-lluvia_129_6666587.html

 

Dentro de Japón existe la desigualdad grave debido a la situación de la pandemia. Cuando escuché a mis amigas en la vida real diciendo que no criticaramos al gobierno porque la culpa tinía el virus, no pude llevar la contraria por estar sorprendida de saber su opinión. No me imaginaba que ese estereotipo japonés de no referirse a la política realmente existía. Ellas no se dan cuenta de su privilegio de poder vivir sin grandes dificultades como los trabajadores de la sanidad pública o algunos obreros de ciertas secciones enfrentan, y que esta situación ha creado por lo que hizo o lo que no hizo el gobierno. Parece que el gobierno no intenta reconformar esta desigualdad puesto que mucha gente todavía no recibe compensación mientras la mayoría de la gente pasa por alto sus actos insuficientes. Es posible decir lo mismo en la distribución de la vacuna. Nosotros no dudábamos que no tardara en poder conseguir la vacuna. En este caso todavía estamos lejos de utiizar la ciencia para una lucha a fin de conseguir una sociedad mejor. Espero que la ciencia nos ayude, pero primero, quiero que la gente se de cuenta y no ignore que está privilegiada.

無題

話しているときに「政府の批判ばかりは良くない」「悪いのはウィルスだけ、誰も悪くない」と言われて、それは私に言われたんじゃなかったけど、すごい嫌だった。

今の状況では医療関係者と一部の労働者に負荷が偏っている。今、いろいろ制約はあるけどまともに生活できている層の生活は、そういう人の犠牲があるからこそだと思う。

政策によって(ほぼ無策状態だが)状況は左右されている以上、私たちはそれを評価する必要がある。批判しないというのは、今の状況を作り出した政府に賛成していることになる。

賛成するならせめて自覚を持ち、「自分には被害がないから」賛成だと言うべきだ。

甚大な被害なく生きられている自分の”特権”に気づくべきだ。

 

キングコング・セオリー ヴィルジニー・デパント 相川千尋 訳

2020年、柏書房

フェミニズムにはずっと興味を持ってきたし、支持してきた。
でも元恋人とそのことがきっかけでけんかして破局したし(別の問題があったけど最後のけんかはそれだった)、昨今のフェミニズムの盛り上がりによるアンチフェミニズムの盛り上がり、ネット上の争いを見ていると少し疲れてきている。
もちろんそれで、女性の権利に対する考えが変わるわけではないけれど。

 

フェミニズムに関するいろいろな文章を読んできたので、このエッセイの翻訳が出版されると知ったとき、だいたい書いてあることが予想できた。それでも購入して読んだのは、帯にもある冒頭の文章に惹かれたからだった。

 

私はブスの側から書いている。ブスのために、ババアのために、男みたいな女のために、不感症の女、欲求不満の女、セックスの対象にならない女、ヒステリーの女、バカな女、「いい女」市場から排除されたすべての女たちのために。最初にはっきりさせておく。私はなにひとつ謝る気はない。泣き言を言う気もない。自分の居場所を誰かと交換するつもりもない。ヴィルジニー・デパントであることは、他のなによりおもしろいことだと思うから。
p.10

 

率直に、私のために書いてくれてありがとうね、と思った。
エッセイなので学術的な要素は少ないが、怒りとともに表明される彼女の意見には元気をもらえる。
レイプの被害にあうこと、売春をすること、ポルノを観ること、ポルノに出演すること、女として表現活動をすることに関して、彼女の経験を通した意見が書かれている。
それらに通じているのは、社会権力が女のあるべき姿を規定して、女をそこに押し込めようとしていることへの反発だ。

 

女自身に内在化されている社会権力の影響について述べられたレイプの章が印象に残った。ヒッチハイクの途中、車内でレイプされ、恐怖のあまり持っていたナイフを出して抵抗できなかったこと。
しかし多少なりとも暴力的なシチュエーションで囚われの身となり、レイプされる妄想をする女は特殊なものではないだろうと述べる。それは社会システムに作られたもので、その妄想はレイプされたことを自分の責任だと考えさせ、罪悪感をうむ。
確かにそのようなシチュエーションを描く作品は山のようにあるし、暴力的なシチュエーションを妄想するという女の話を聞くのも珍しくはない。今までそれについて何も疑問に思っていなかったことに気がついた。そのような社会的素地は確かにあって、多くの人が影響を受けている。
気づかないうちに社会の影響を受けていることは自覚するようになっているけど、性的な妄想の範囲までは考えたことがなかった。

 

訳者後書きにもあったけど、彼女の全部の主張に賛成できるわけではない。あくまで個人的な体験をもとにして書いているから、一概にそう言えないと思える部分もあった。例えば、売春について。

性産業に従事する女性に対する社会の偏見に怒りを表明し、彼女がその経験で得たポジティブな影響に言及する。確かに彼女にとっては自分で行い、責任をとれる範囲の行動なんだろうが、全員がそうじゃない。性産業だけを他の仕事と分けて考えることの是非から考えないといけないが、やはり暴力や搾取に繋がりやすいところはあるので、規制については慎重に行わなねばならない。

 

女性を抑圧する(男性も抑圧する)社会構造や社会規範に目を向けるために読むといいと思う。言葉遣いも面白くて、好みはあると思うけど、怒りが小気味よく、読んでいて気持ちいい。